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東京高等裁判所 昭和55年(行ケ)178号 判決 1984年7月30日

原告

アレン・オーガン・カンパニー

被告

特許庁長官

主文

特許庁が昭和55年1月26日に同庁昭和49年審判第8794号事件についてした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第1当事者の求めた裁判

1  原告は、主文同旨の判決を求めた。

2  被告は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。

第2原告主張の請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和44年5月19日、特許庁に対し、名称を「デイジタル電子オルガン」(後に「電気楽器」と訂正)とする発明(以下「本願発明」という。)につき、特許法第38条但書の規定により、特許出願(特願昭44―38683号)にしたが、昭和49年6月20日付で拒絶査定を受けたので、昭和49年10月15日、これに対する審判を請求したところ、特許庁は、これを同庁同年審判第8794号事件として審理した上、昭和55年1月26日、「本件審判の請求は成り立たない。」との審決(以下「審決」という。)をし、その謄本は、同年2月28日、原告に送達された。

2  本願発明の要旨

1 少なくとも1個の予め選択された波形のデイジタル表現をストアするための手段と、

1又はそれ以上の異なる選択可能な速度で前記波形の前記デイジタル表現を繰り返し読み出すための手段と、

音楽家が1回に1又はそれ以上選択的に操作するキーを有する鍵盤と、

前記キーの1又はそれ以上の同時操作に応答して、前記デイジタル表現を繰り返して読み出すための前記手段が任意の時間的瞬間に音楽家によつて操作された特定のキーに基づく前記1又はそれ以上の異なる予め選択された速度で前記デイジタル表現を同時に読み出すようにする手段と、

前記繰り返し速度かつそれ故に音楽家が選択的に操作する1又はそれ以上のキーに基づいて音楽出力信号を発生するための手段とを備えた電気楽器

2 前記デイジタル表現は複数のデイジタル語を含んでいて、

各語は類似の複数のサンプル点の継続する点における前記波形の振幅の増加率変化を表わしている、右1記載の電気楽器

3  審決理由の要点

本願発明の要旨は、前項記載のところにあるものと認める。

一方、特公昭40―23号公報(以下「引用例」という。)には、二進化関数設定マトリツクスを用いた関数発生装置が記載されており、それを音声の合成に利用することも記載されている。

そこで、本願発明の要旨1記載の発明(以下「発明1」という。)と引用例記載のものとを比較すると、両者は、予め選択された波形のデイジタル表現をストアするための手段と、前記デイジタル表現を所定の速度で読み出すための手段とを備えた合成音発生装置、という基本的技術思想において一致するものと認められ、引用例記載のものを音声の合成に利用する以上、前記読み出しを反復して行うこと、及び、その反復速度を音程に応じて選定することは明白であるから、両者は、1又はそれ以上の異なる選択可能な速度でデイジタル表現を繰り返し読み出すための手段を備えていることでも一致するものと認められる。ただ、発明1は、合成した音で音楽を奏でるものであるのに対し、引用例記載のものは、合成した音の用途が明らかでないこと、発明1は、キーの選択的操作によつて、読み出し速度を選択するのに対し、引用例記載のものは、読み出し速度の選択をいかにして行うか明らかでないこと、発明1は、複数のキーの同時操作に際しても、異なる速度での複数の読み出しを並行して行えるようにする手段を備えるのに対し、引用例記載のものは、該手段を備えていないこと、で差があるものと認められる。

しかし、電子的に合成した音で音楽を奏でることは周知であるから、引用例記載のものにより得られた合成音を音楽に利用することは、容易になしうることと認められる。また、鍵盤楽器においては、キーの選択的操作によつて音程を選定することは当然であるから、音程を決定する読み出し速度の選択を、キーの選択的操作によつて行うことは、容易になしうることと認められる。さらに、複数のキーが同時に操作された際、それらに対応するすべての音を同時に発音させるには、それらに対応するすべての発音装置を同時に動作させなければならないことは当然のことであるから、デイジタル表現の読み出しによつて発音させるものにおいて、複数の音を同時に発音させるために、複数のデイジタル表現の読み出しを同時に並行して行うことは、容易になしうることと認められる。

以上のとおりであるから、本願発明は、その出願前に頒布された刊行物である引用例に記載されたものに基づいて当業者が容易に発明できたものと認められるので、特許法第29条第2項の規定により特許を受けることができない。

4  審決を取り消すべき事由

審決は、後記のとおり、引用例に記載された発明についての認定を誤り、その誤つた認定に基づいて本願発明が容易に発明できたと誤断したばかりでなく、そのように判断したこと自体においても、通常進歩性なしとされる程度をはるかに超えて判断しているものであるから、違法として取り消されるべきものである。

1 引用例記載の発明についての認定の誤り

(1)  引用例記載の「音声の合成」の誤解に基づく認定の誤り審決が引用例の教示技術を「二進化関数設定マトリツクスを用いた関数発生装置」と認定していること自体については、原告もこれを争わない。しかし、審決は、次の(1)ないし(3)記載のとおりの技術的理解の誤りを犯している。

(1) 「それ(引用例記載の装置)を音声の合成に利用することも記載されている。」との認定について

引用例は、その明細書の冒頭における技術の一般的背景を述べる個所において、「関数発生装置」に関し、たまたま、「電圧の振幅が時間的に所望の変化をなすものを関数電圧と呼び、関数電圧を発生する装置を関数発生装置と呼んでいる。近年、自動制御、アナログ計算器、音声の合成など多方面において関数発生装置の需要が増している。」と述べている。

このような引用例の記載に基づいて、審決は、「二進化関数設定マトリツクスを用いた関数発生装置が記載されており、それを音声の合成に利用することも記載されている。」と認定している。

このような審決の認定は、今から約14年前の本願発明の特許出願当時の「音声の合成」の技術状態及び引用例記載の技術を実現する電子工学の技術水準を過去約14年間にわたる技術発展のあと知恵のために誤解したことに起因する。「それ(引用例記載の装置)を音声の合成に利用することも記載されている」と認定することは、右各技術水準からすれば、明らかに技術常識に反することであり、誤つた認定である。

(2) 音声の合成における「前記読み出しを反復して行うこと、及び、その反復速度を音程に応じて選定すること」の認定について

審決は、「後者(引用例記載の装置)を音声の合成に利用する以上、前記読み出しを反復して行うこと、及び、反復速度を音程に応じて選定することは明白である。」と認定している。このように、審決は、「同一波形の反復読み出しにより音声の合成が可能である。」との認識の下に引用例の教示技術を理解し、引用例に記載された発明を認定している。

しかしながら、「音声の合成」に関するそのような理解は、全く技術常識に反することであり、右認定は誤りである。

すなわち、本願発明の特許出願当時においても、そして「音声の合成」の技術が進歩した現在においても、ある基本的な波形を規則正しく繰り返し発生させることによつて、人間の意志を伝えるために人間の声帯から発生される言語の音に類似した音、たとえば、母音及び子音、清音、濁音、促音、拗音などを含めて合計100個もの単音節の言語音声を所要の明瞭度で発生させることは不可能であり、また、全く技術常識に反するものなのである。むしろ、「音声の合成」では、時間的に不規則に変化する音声波形をいかに類似するように合成するかに努力が向けられてきており、そのために「ある基本波形を規則正しく繰り返し発生させること」とは相反することが行われてきたのである。

このことは、一見中間部分の波形単位(音節素片)の単純な繰り返しで合成させうるようにみられる母音音節についても、人間の発声に近いものを作り出すことは極めて困難であり、まして、母音以外の音節について単純な音節素片の反復でその合成を実現することの不可能であることは明白であるため、音声の合成のために音声素片の1サイクルを反復するという発想がありえないことからも明らかである。

(3) 音声の合成における「1又はそれ以上の異なる選択可能な速度でデイジタル表現を繰り返し読み出すための手段」の認定つについて

審決は、また、「両者(引用例記載の装置と本願発明)は、1又はそれ以上の異なる選択可能な速度でデイジタル表現を繰り返し読み出すための手段を備えている」と認定している。

しかしながら、音声の合成では、「反復の読み出しがありえないことに加えて)読み出し速度を複数の音程に応じて選択することも全くありえないことである。それにもかかわらず、審決が、音声の合成では、(反復の読み出しをありうることとしたうえ)反復速度を複数の音程に応じて選定することが行われていると認定するのは、「音声の合成」に関する技術常識に反する全く初歩的な技術的理解の誤りである。

すなわち、音声の合成では、仮に単音節単位の音節の読み出しによつてこれを行うとしても、明瞭度が極めて重要である関係上、あるべき波数で音声波形を再現するだけで十分であり、読み出し速度を複数の音程によつて選択する必要は全く存在しない。たとえば、テープレコーダにおける通常の録音のテープを倍速で再生すれば、再生された音声は全く明瞭度を失つていることをみても、このことは明らかである。

(2)  引用例の教示の理解を自明の範囲を超えて過度に拡張することに基づく認定の誤り

審決は、「それを音声の合成に利用することも記載されている」とし、「後者(引用例記載の装置)を音声の合成に利用する以上」と述べることにより、引用例が、「前記読み出しを反復して行うこと、及び、その反復速度を音程に応じて選定することは容易である。」と認定し、さらに、「1又はそれ以上の異なる選択可能な速度でデイジタル表現を繰り返し読み出すための手段を備えている」ものと認定している。

ところが、このような審決の認定は、後記(1)ないし(3)のとおり、引用例の教示する技術を、自明の範囲を超えて過度に拡張し、その結果、「引用例に記載された発明」の認定を誤つたものである。

(1) 引用例に教示の「音声の合成」から「純音」、「楽音」又は「音声素片反復音」の合成への拡張について

審決は引用例の装置で発生されるものを「合成音」ないし「合成した音」と呼んでいるが、審決は引用例の「音声の合成」の表現を基に引用例の実質を「音声の合成」として明白に把握しているのであるから、その「音声」の意味を「音」一般に拡張して理解することはできない。しかも、「振動数が同一波形の繰り反し数(1秒あたり)であり、求めるものが同一波形の繰り返しである。」といいうるのは、音の分類の中で純音と楽音についてのみなのである。また、審決の認定した右「音声の合成」が実質上意味するところを「音声素片反復音の合成」にまで拡張して理解することも到底許されないところである。

このように、引用例における「音声の合成」の表現から、「純音や楽音の合成」ないし「音声素片反復音の合成」に想到するには、著しい困難性が伴い、引用例には、「純音や楽音の合成」ないし「音声素片反復音の合成」については、教示はおろか示唆もされていないのである。

(2) 「音声の合成」から「音声の合成の前提としての音の合成」への拡張について

審決は、引用例記載の発明を「音声の合成」に利用するについて、「読み出しを反復して行うこと」及び「その反復速度を音程に応じて選定すること」は明白であると認定している。したがつて、この審決における認定を「「音声の合成」の前提としての「音の合成」」に利用すると認定したものとみることは、審決の判断から逸脱することであり、到底許されないところである。また、たとえそのような逸脱が許されたとしても引用例の装置が音の合成に利用でき、ひいては音声の合成に利用できるとする議論は、音についての初歩的なかつ根本的な誤りに基づくものであり、しかも、引用例の教示の理解を通常の自明の範囲を超えて過度に拡張することとなり、「引用例に記載された発明」の認定の誤りとなる。

(3) 「音声の合成」から「その反復速度を音程に応じて選定すこと」及び「1又はそれ以上の異なる選択可能な速度でデイジタル表現を繰り返し読み出すための手段」への拡張について

審決は、「二進化関数設定マトリツクスを用いた関数発生装置が記載されており、それを音声の合成に利用することも記載されている。」と認定し、さらにまた、「後者(引用例記載の装置)を音声の合成に利用する以上、前記読み出しを反復して行うこと、及び、その反復速度を音程に応じて選定することは明白である。」と認定した上で、さらに、引用例は、「1又はそれ以上の異なる選択可能な速度でデイジタル表現を繰り返し読み出すための手段」を備えている旨認定している。

しかしながら、右認定は、引用例の教示をその自明の範囲を超えて過度に拡張することにほかならず、引用例に記載された発明の認定を完全に誤つたものである。

2 進歩性の判断の誤り

(1)  引用例の誤認に基づく進歩性の判断の誤り

審決は、前記のとおり引用例に記載された発明についての認定を誤つたものであるから、その誤認に基づいてした本願発明の進歩性に関する判断も、当然誤りである。

(2)  進歩性の程度を誤つたことによる判断の誤り

審決は、後記のとおり、引用例に記載された発明を電子楽器に応用することに関連して、通常認められている進歩性の程度をはるかに超えて、不当に厳しい進歩性の程度を必要とする見解のもとに、本願発明の容易性を判断したものであるから、その判断は誤りである。

(1) 「電子的に合成した音で音楽を奏でること」と「引用例の関数発生装置の音楽への利用」との間の推考容易性について

引用例には、「予め選択された波形のデイジタル表現をストアするための手段と、前記デイジタル表現を所定の速度で1回読み出すための手段とを備える関数発生装置」しか開示されていない。仮に、引用例の教示から、論理的になからかの装置に想到できるとしても、それは、右各手段を備えた「音声の合成装置」にすぎない。したがつて、そのような仮定の音声の合成装置を電子楽器の音源に転用するためには、まず、引用例の二進化関数設定マトリツクスを用いた関数発生装置又はそれを用いる音声の合成装置を電子楽器に応用することに着想することが必要である。しかるに、このような着想は当業者にとつて極めて困難を伴うものなのである。

(2) 「音程を決定する読み出し速度の選択を、キーの選択的操作によつて行うこと」の容易性について

審決は、単純に、「鍵盤楽器においては、キーの選択的操作によつて音程を選定することは当然であるから、音程を決定する読み出し速度の選択を、キーの選択的操作によつて行うことは、容易になしうることと認められる。」と認定する。

しかし、たとえ引用例がその関数発生装置を用いる音声の合成装置を教示すると仮定しても、そのような音声の合成装置には、複数の音程を決定するという概念は全く含まれず、「音程を決定する読み出し速度の選択をキーの選択的操作によつて行うこと」に想到するためには、ⅰ「楽音素片を反復して読み出すことにより楽音を作ること」に想到し、ⅱ「右繰り返し読み出し速度を1又はそれ以上の異なる選択可能な速度に選ぶこと」に想到し、ⅲ「1又はそれ以上の異なる選択可能な速度の選択を1又はそれ以上の選択的に操作するキーの操作に対応させ、それによつて1又はそれ以上の異なる選択可能な音程をキーの選択に対応させること」に想到する必要があり、これらの想到にはそれぞれ著しい困難があるのである。

(3) 「複数のデイジタル表現の読み出しを同時に並行して行うこと」の容易性について

審決は、単純に、「複数のキーが同時に操作された際、それらに対応するすべての音を同時に発音させるためには、それらに対応するすべての発音装置を同時に動作させなければならないことは当然のことである。」との理由のみから、「デイジタル表現の読み出しによつて発音させるものにおいて、複数の音を同時に発音させるためには、複数のデイジタル表現の読み出しを同時に並行して行うことは、容易になしうることと認められる。」と判断する。

しかしながら、従来、複数のキーの同時操作で対応の音を同時に発音させるためには、選択回路が複数のものを選択する方法によつていたものを、本願発明では、複数の楽音の音程の発生のために異なる読み出し速度でデイジタル表現を読み出すことを提案し、その上でさらに複数の楽音を同時に発音されるためにデイジタル表現の読み出しを同時に並行して行うことを提案しているのである。したがつて、前記のとおり、デイジタル表現の読み出し速度を変えることにより複数の楽音の音程を選択することが極めて想到困難である以上、これを前提として複数の楽音を同時に発音させるためにデイジタル表現の読み出しを同時に並行して行うことも、また極めて想到困難なことである。

第3請求の原因に対する被告の認否及び主張

1  原告主張の請求の原因1ないし3の各事実は認める。

2  審決を取り消すべきものとする同4の主張は争う。原告主張の審決取消事由は、後記のとおり、いずれも理由がなく、審決には、これを取り消すべき違法はない。

1 引用例記載の発明についての認定の誤りの主張に対して

(1)  「音声の合成」の誤解の主張に対して

(1) 引用例における「音声の合成に利用する」旨の記載について

審決が、「それを音声の合成に利用することも記載されている。」と認定しているのは、それを音声の合成に利用するための具体的な技術が記載されている、と認定しているものではないことは、審決の全趣旨から明白である。審決の右認定は、引用例の「近年、自動制御、アナログ計算器、音声の合成など多方面において関数発生装置の需要が増している。」との記載に基づいているものであり、この記載から、関数発生装置を音声の合成に利用する、という着想が引用例に記載されていると認定しているのである。引用例の右記載事項は、音声の合成に関数発生装置の需要がある、ということであるから、それを言い換えれば、関数発生装置を音声の合成に利用する、ということになり、これに関する審決の認定に誤りはない。

(2) 「読み出しを反復して行うこと、及び、その反復速度を音程に応じて選定すること」の認定ついて

審決は、「同一波形を反復して読み出すだけで音声の合成ができる。」との認識の下に判断しているのではなく、「関数発生装置を用いて音声の合成を行うためには、まず、音声よりも単純な一般の音の合成ができなければならないが、そのためには、音の一般的な要素であるところの波形、振動数及び振幅をそれぞれ合成しなければならない。しかるに、それらの合成のうち、関数発生装置を直接に利用できる要素が波形であることは明白であるから、残りの要素のうち、振動数が反復読み出しの速度で決定できることも明白である。」という認識の下に判断しているのである。

すなわち、審決は、音声といえども音であるから、それを合成するには、まず、それよりも単純な一般的な音、それも一定の音色・音高・強さの持続音の合成が必要であることを前提としているのであり、音の3要素の1つである「波形」を関数発生装置すなわち波形発生装置で得ることが、引用例に開示されているとしているのである。

同一波形の反復読み出しのみによつて、全ての音声の合成を行うことが不可能であることは被告も認めるが、このことを前提とする原告の主張は、審決の理由とするところと異なる点をとり上げるものであるから、全て失当である。

(3) 「1又はそれ以上の異なる選択可能な速度でデイジタル表現を繰り返し読み出すための手段」の認定について

音声といえども種々の音程があり、例えば、女性の声は、一般的に男性の声よりも音程が高く(振動数が多い)、子供の声は大人の声よりも音程が高い。また、同一人の声でも、歌を歌う際には、種々の音程に変化させるので、音声の合成に際しても(一般の音の合成に際しては勿論)音程を決定しなければならないことは当然のことであり、複数の音程から1つの音程を選ぶことは当然である。そして、音程は振動数によつて決定されるという常識(乙第1号証参照)から、読み出しの反復速度を音程に応じて選定することは、当然の帰結である。音声の合成においては、テープレコーダに録音した音声を再生する場合のように読み出し速度(テープ走行速度)を単一に決定するものではなく、本来のあるべき周波数(振動数)が、前記のように複数の中から選定されるのであるから、読み出し速度をそれに応じて選定すべきことは当然である。

(2)  引用例の拡張解釈の主張に対して

(1) 「音声の合成」と、「純音」、「楽音」等の合成とについて

審決において「音声の合成」と記載している部分は、引用例から引用した部分であるから、判断を交えることなくそのままに記載したのであり、これに対して、「合成音」、「合成した音」のように音声に限定しない一般の音と記載した部分は、引用例から把握した技術内容を客観的に評価して、引用例として必要な情報は「音声の合成」である必要はなく、「音の合成」であれば十分であり、しかも、それならば開示されていると判断した結果である。

また、「音声」しか合成できないものを、その他に「純音」も「楽音」も合成できるというのであれば、それは拡張であるが、審決において引用例に「音の合成」について開示あると認定していることが、そのような意味(拡張)でないことは明白である。審決が述べていることは、「引用例には「音声の合成」と記載されてはいるものの、音声としての特徴を備えた特別の音の合成についての開示はない。しかし、それよりも単純な一般の音の合成については開示がある。」ということであつて、これを拡張ということはできない。

(2) 「音声の合成」と「音の合成」、「反復速度の選定」及び「繰り返し読み出し手段」について

この点に関する原告の主張が失当であることは、右(2)の(1)及び前記(1)の(2)に記載するところから明らかである。

2 進歩性の判断の誤りの主張に対して

(1)  引用例の誤認に基づく主張について

審決には、原告主張のような引用例の誤認はないから、この点に関する原告の主張は理由がない。

(2)  進歩性の程度に関する主張について

(1) 「電子的に合成した音で音楽を奏でること」と「引用例の関数発生装置の音楽への利用」とについて

原告の主張は、引用例に開示のものが、音声の母音、子音等約100個の単音節を各々記録すなわち録音したものを、所定の速度で読み出し、それらを組み合わせて言語を合成するもの、としか仮定しえないとの理由に基づくものであるが、引用例に開示のものがそのような内容のものでないことは前主張のとおりであり、引用例には、音程と波形が選択できる音の合成装置が開示されているのである。

そして、音程と波形が選択できる合成音が得られることが判明すれば、それを周知の電子楽器の音源とすることは、電子的に合成した音で音楽を奏でるという周知技術(乙第4、5号証)から、容易に推考できることである。

(2) 「読み出し速度の選択をキーの操作によつて行うこと」について

引用例には、音の波形を関数発生装置に記憶させ、それを読み出すことにより音の合成を行うことが開示されており、「振動数(音程)という音の要素は、1秒あたりの「波形」の繰り返し数であるから、関数発生装置の読み出し操作を繰り返し行うことは自明である。したがつて、読み出しの繰り返し速度を選択すること及びそれをキーの選択的操作によつて行うことは、周知の電子オルガンがキーの選択的操作によつて、「振動数(音程)」の選択を行うことから容易に類推できることである。

(3) 「複数のデイジタル表現の読み出しを同時に並行して行うこと」について

前記1の(1)の(1)ないし(3)に主張した引用例開示の技術によれば、「デイジタル表現の読み出し速度を変えることにより複数の楽音を選択すること」を格別困難とする理由はなく、右選択を前提として読み出しを同時に行うことに想到することは容易であるから、原告の右主張は失当である。

第4証拠関係

当事者双方の書証の提出及びその認否は、訴訟記録中の書証目録記載のとおりであるから、ここにこれを引用する。

理由

1  原告主張の請求の原因1ないし3の各事実(特許庁における手続の経緯、本願発明の要旨及び審決の理由の要点)については、当事者間に争いがない。

2  そこで、審決取消事由の存否について検討する。

前記審決の理由の要点によれば、審決は、引用例には、「二進化関数設定マトリツクスを用いた関数発生装置が記載されており、それを音声の合成に利用することも記載されている。」と認定し、本願発明と引用例記載のものは、「予め選択された波形のデイジタル表現をストアするための手段と、前記デイジタル表現を所定の速度で読み出すための手段とを備えた合成音発生装置、という基本的技術思想において一致するもの」とした上、「引用例記載のものを音声の合成に利用する以上、前記読み出しを反復して行うこと、及び、その反復速度を音程に応じて選定することは明白である。」としている。

審決の右記載のみからすれば、審決は、予めストアされたデイジタル表現を所定速度で繰り返し読み出すことにより、直接に音声の合成ができるとの前提にたつているともみられないではない。

しかしながら、同一波形の反復読み出しのみによつて全ての音声の合成を行うことが不可能であることは当事者間に争いのない事実であり、その事実を勘案すれば、審決の右記載は、明示はしていないものの、被告主張のように、「音声といえども音であるから、それを合成するには、まず、それよりも単純な一般的な音、それも一定の音色・音高・強さの持続音の合成が必要」であり、したがつて、引用例記載の装置は、音声の合成に利用される以上、当然に、予めストアされたデイジタル表現を繰り返し読み出すことにより右のような一般的な音の合成をすることが可能であることを前提として、引用例記載の発明についての前記認定をしているものとみざるをえない。

そこで、審決の右の前提の当否について考察する。

成立に争いのない甲第6号証(「音響音声学入門」乙第2号証も同じ。)の記載特にその第30頁図3・3によれば、音声のうち、特に母音において、それが一定の高さ(基本周波数100cps)で発音されたとき、ほぼ同一波形の繰り返される部分がある程度にわたつて存在し、それが、一応、一定の音色・音高・強さであることが認められる。しかし、右のような部分は、母音を一定の高さで発音したときに生ずるごく限られた部分であつて、これのみで全ての音声の合成ができないことは、前記当事者間に争いのない事実に照らし、明らかである。

そして、いずれもその成立に争いのない甲第4号証(「聴覚と音声」。特にその第445、446頁(b)Compiled speechの問題点の項)、甲第7号証(「音声の合成」。特にその第19頁第3ないし第13行)及び前記甲第6号証(乙第2号証)の各記載によれば、音声を構成する一般的な音のうち、前認定の特定の場合の母音を除く大部分のものは、不規則な波形を持つもので、同一波形の反覆読み出しによつてこれを合成することが不可能なものであり、したがつて、本願発明の特許出願前においては、音声の合成をするについては、音声素片の最小単位(必要とされる素片の数としては最大となる。)としてはせいぜい単語が考えられ、記録された単語を読み出し編集することにより音声の合成をすることが考えられていた程度であつて、それより小さい素片からの合成については、通常は考えられていなかつたことが認められる。

以上の事実によれば、審決の前記前提は到底これを認めることができず、ほかに、引用例記載の装置で予めストアされたデイジタル表現を反覆読み出すことにより音声を構成すべき一般的な音の合成が可能であることを認めるに足りる証拠はない。

してみれば、右前提の下に導き出された引用例記載の発明についての審決の認定は、正当なものということはできず、審決は、引用例記載の発明についての認定を誤つたものといわなければならないところ、右誤認が審決の結論に影響を及ぼすべきものであることは明らかであるから、審決は違法としてこれを取り消すべきものである。

3  よつて、審決の取消を求める原告の本訴請求を正当として認容することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法第7条、民事訴訟法第89条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。

(瀧川叡一 楠賢二 牧野利秋)

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